この年になって、人生がこんなにもめまぐるしく動くなんて思わなかった。
今、私はレディーのアトリエにいる・・・

閉店さようならパーティーの深夜、レディーに「帰りたくない」とつぶやいた。
レディーは何も聞かずに「じゃあ、ここに止まったら」と言って、アトリエを貸してくれた。携帯に着信がたくさん来ていたけど、何も見ないうちに充電が切れていた。
今の自分が他人事のように感じられた。
シャワーを浴びたあと、二人でビールを飲みながらたわいもない話をして、そのあと久しぶりにぐっすりと眠った。
例の想い出のソファーの上で、彼のことを想いながら・・・
レディーの心配りに感謝しつつ・・・

朝日が差し込んできたアトリエで目を覚ました。
改めてアトリエを見渡すと、一枚の写真を飾ってあった。どうやらクリスマスパーティーの写真のようだった。彼が小さく写っていた・・・

彼女の絵を見た。
彼女の絵は・・・少し変わった絵だ。
そのうちのいくつかには、仏像が描かれていた。
妙に仏像の手のひらが大きく描かれた一枚の絵・・・
不思議にじっと見つめていると、手のひらに描かれたしわが目に入った。夜には気づかなかった、細くかすかなしわ・・・
見覚えのある運命線。
手首から一直線に中指にまで伸びた運命線・・・は、まさしく彼の運命線だ。
彼女は、自分の運命を彼の運命線に託したかったのか・・・

熱い想いに胸が痛んだ。
彼女は、どういうつもりで彼と過ごした想い出のソファーを貸してくれたんだろうか・・・と思った。
彼の密度の濃い空気が、まだこのアトリエにあるような気がした。そうしてぼんやりと朝の光を感じていた。
これから、どうしようか・・・と思い、泣いた。

途方にくれながら階段を下りると、コーヒーの匂いがした。
そのときに、レディーの一言。
「オナニーした?」

ぶったまげた〜
思わず周囲を見渡したよ〜
重苦しい想いがぶっとびました!

「してません!(笑)」
「え〜? せっかくソファーを貸してあげたのに〜(笑)」

なんだか可笑しくなって、二人できゃらきゃらと笑った。
そしてコーヒーを飲みながら、彼女が・・・
「ねえ、この店をやってみない?」

その一言ですべてが動き出した。
彼女にすべてを話した。
途中、彼女はただうなずくだけだった。

束の間の沈黙を破ったのは、彼女だった。
「やってみない? 行き詰っているでしょう?」
「本当にいいんですか?」
「あんまり、儲からないわよ(笑)」
そして、ゾクッとするような目でこう言われた。
「ただし、条件があるわ。彼には言わないこと。離婚のこと、私のこと、このお店のこと。約束できる?」
「え・・・」
「それから、もう一つ。彼のブログを読むのを止めること。あのブログは・・・」

彼女も読んだんだ・・・彼女はどう感じたんだろう?
彼女のアトリエの写真や絵のことを思い出しながら、酷いことをしたな、と思った。
きっと、彼女は自分自身に言い聞かせているんだと感じた。

「約束します。」
「じゃあ、マスターに話さないと」と笑顔で席を立った。

マスターに改めて紹介された。
彼女は細かい事情は話さずに、ただ彼の昔の恋人だと一言だけ。
「なるほど、あなたが。どうりで美人だと思った。」
お世辞だと分かっていてもうれしかった。
そして彼女が
「彼女に店を任せて欲しいんだけど」
マスターの笑顔が消えた。
沈黙の時間・・・時計のコツ、コツという音だけが大きく聞こえた。
どういう返事が返ってくるんだろう?
こんな急な話で困るわよね。
昨日まで私のこと知らなかったわけだし・・・
無理よね、どう考えても。
昨日、閉店パーティーをしたばかりだし。
これ以上、迷惑をかけたらいけないわよね。

沈黙の時間が怖くなった私が
「やっぱり・・・」
と言いかけると、マスターが
「彼の恋人だった人なら・・・信用しよう。昨日もてきぱきと手伝ってくれたし。ちょうど、常連さんに顔見世にもなったわけだ。」
と、とても素敵な笑顔で言ってくれた。

こんなに簡単にことが運んでいいのか?
それより、子どもたちのことはどうしよう?
離婚して生活できるくらいお金が入るのか?

私は感謝の言葉も忘れて、頭の中がぐるぐる回るばかりだった。

ぶしつけにも、
売り上げがどのくらいか、借賃をどのくらい払えばよいのか、細かいことを聞いた。
嫌な顔もせずに丁寧に教えてくれた。借賃は、どう考えても破格だ。利益の15%だもの・・・

「さ〜て、忙しくなるぞ〜」
と言うマスターに、人の優しさを忘れかけてた私は、ただただ頭を下げて泣くことしかできなかった。

マスターがいなくなると、レディーに
「約束を忘れないでね」
と、今度はやさしい瞳で言われた。
私は、黙ってうなずいた。
絶対に、この人だけは裏切らない。

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